2009年07月01日

西の正倉院

こんにちはペーターです。

宮崎県の美郷町(旧南郷村)にある「西の正倉院」へ行ってきました。
奈良、東大寺の宝物殿である国宝「正倉院」の実物大コピーです。
正倉院はログハウス(丸太組工法)と全く同じ工法(校倉工法)で建てられているのです。
しかし、実際の建物は・・・

西の正倉院
間口約33m,奥行約9.4m,床下約2.7m,総高約13mの大きさのそれは、4階建ての校舎かマンションかという規模です。巨大な木造建築なのです。
西の正倉院
両端は校倉作り、真ん中のスパンは「板倉」という溝に板を落とし込む工法で作られています。
西の正倉院
高床式の足元、直径約60センチ高さ2mを超える大きな檜の丸太40本が支えています。
西の正倉院
校木は六角形、三角形に見えますが実際には六角形です。
なぜこの形状なのか?は様々な説がありますが、当時の製材技術では木を挽くより「楔で割る」ようだった為に大木を分割した三角形を面取りした六角形という説が有力らしいです。
ただこれだけ正確に真っ直ぐに割れたものなのでしょうか?
宮崎のこれは、当然機械製材されたものです。ただ仕上げにはヤリガンナを用いてあるようです。
西の正倉院
深い軒と二重の垂木
日本におけるログハウス設計のセオリーとされる「深い軒」、木の腐食の三大要素のひとつ「水分」から木を守るためです。軒を延ばす前に、桁をオーバーハングさせてあります。
突き出した土台は保護するために銅板が巻かれていました。
西の正倉院
北側の軒裏は通気の為か格子で空けてありました。
木の建物は通気良くして置く事が大切です。
西の正倉院
入口のドアもぶ厚い檜で作られています。
金物まで忠実に再現してあるそうです。
西の正倉院
床は今でいう「根太レス工法」
ぶ厚い檜の板を土台の間に渡して作られています。断熱材などありません。
板同士は実組み合わせとかではなく、相釘(今で言うビスケット?)で寄せられています。
その為、木の乾燥収縮で隙間が出来、外が見えます。
当然ちゃ当然です。
西の正倉院
一番見たかったノッチ(木材の交差)部分、相欠きの独特のノッチで収めてありますが、ノッチは手刻みだったようで寸法にもバラつきが・・・故に当然のごとく隙間が・・・
これを確かめたかったのです。
西の正倉院
実もないフラットな断面を積み上げてある校倉壁、当然校木と校木の間から雨水が染みていることは容易に察しが付くものです。模範解答のように雨染みの跡がありました(^-^)
こうでなきゃオカシイんです。
西の正倉院
軒がやたらと深い為、上部のノッチからは染み込みは見られません。
西の正倉院
小屋裏も収蔵スペース、そして小屋組が少し見えます。
和小屋ですね。母屋を支える「筋交い」が入ってます。
西の正倉院
板倉と校倉の境のところには柱も立てられていました。
この柱がセトリングとどういう風に取り合っているのか・・・確認し忘れました・・・

構造としてはぶ厚い床板を梁で支えるという極シンプルなものです。

この現代に再現された「西の正倉院」がどれだけの耐久性を持つか分かりませんが、奈良のホンモノは既に1300年間にわたりあり続けています。

木の建物でもしっかりした構造と、木の弱点を補う作りになっていれば100年位は優に持たせることができると思っています。

ホンモノの「校倉作り」を見てしまうと、街中に多く見られるログハウスのなんと華奢な事
日本でも稀な200ミリ前後クラスのログシェルを使ったものでやっと匹敵ってレベルですね。
100ミリ前後のログシェルってお話にならん・・と思ってしまいました。

正倉院の中で1000年以上前の宝物が状態良く保存されていたのは、校倉による部分というよりは「木箱」に納められていた事です。
学校では「校倉が収縮して湿気をブロックしたり通気させたり内部を良好な状態に保った」などと教わったと思います。
半分合ってますが半分嘘です、というか言葉足らずです。
宝物は二重三重に保護されていたんですね。そんなことは書かれて居なかったように思います。

今思うと「教科書」っても結構いい加減なもんだった訳ですね。

こういう建物作ってます、何か仕事ください(笑)



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Posted by ポップ at 09:52│Comments(0)建築のお話
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